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朝は諺に始まる

毎朝、起き出して最初にやることは、SNS(TWとFB)に現代ウイグル語の諺を一つ紹介することである。

いつから始めたのか思い出せないが、蘭州に来てからではないことは確かなので、少なくとももう6年はやっているはずである。基本的に毎日ひとつ諺を紹介しているわけだから、大雑把に計算しても365×6=2190は紹介した計算になる。これは考えてみると凄いリソースである。

ただ2190とはいってもその中には重複もいくらかあるので、実数はもう少し少ないだろう。厳密な数は今後調べてみたい(←宿題!)が、ともかく2000を越える諺が手中にある(と言ってよいのか?)のは何か心強い。辞書の用例に、あるいは特定のトピックの分析の材料として今後活用できそうではある。

毎朝典拠となる文献(だいたい諺辞典、諺宝庫のようなタイトルの書籍を順々に開いては、「紹介するのが楽そうな諺」を見つけては紹介する。その繰り返しだ。

頭から一つ一つ順々に紹介しているのではない。

文献にあげられた諺の中には、既知の諺のヴァリアントも少なくないので、そういうのはついパスしがちだ(本当は丁寧に記録し続けて行ったらいいのかもしれない、と今気づいた)。

あとあまりにも主張が立ち過ぎた諺も苦手なので忌避する傾向がある。たとえば、

el bar yerde er bar.
(国があるところ男あり。)

こういう「主張が立ちすぎ」は伝統的な諺と言うよりもっと近現代的な、スローガンではないのかと疑わせるような「諺」である。別に諺の採否に明確なガイドラインを設けているわけではないが、そういうものはどうも私は「ノレない」。よって採用、紹介は見合わせとなる。

さらに伝統的な諺で、私が個人的に苦手なのはジェンダーの問題に抵触するような諺だ。男性はこうあるべし、女性はこうあるべし。あるいは男性はこういう面がすぐれているのに対し、女性はああいうところが劣っている。というような旧社会の「常識」が諺には色濃く盛り込まれているのだ。例えば、以下の諺を読んであなたはどう感じるだろう。

xotun qaniti er, er qaniti at.
(女の翼とは男、男の翼は馬。)

xotun kishining chéchi uzun, eqli qisqa.
(ご婦人の髪は長いが、智慧は短い。)

そういうのは現代の価値観ではおおむねアウトである。そういうのも私はちょっと賛成できないので避ける傾向がある。実は学術的にはそういうものとも向き合えば得られるものがある、というのは承知している。しかし苦手なものを無理をしてまでやりたくない。私のこの朝の営みはそんなたいそうなものではないし、無理をし続けたらこの日課はしんどくなって、やがて行き詰ってしまうだろう。

今日はここまで。このトピックはもっとかけそうな気がする。また気が向いたら加筆していくことにしたい。

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